あわら市後山地区「上野山城跡」の踏査(2)

2017年3月25日(土)あわら市にある上野山城跡の踏査を実施しました。
歩いている途中で、カメラのバッテリーが切れて、遺構撮影ができなくなりました。でも引き返すわけにはいきません。自分の瞼にしっかり焼き付けて帰る覚悟で、先へ進みました。

編集_あわら市東山上野山城跡の踏査2017年3月26日 (7)主郭部手前の平坦地(ウネウネと凹凸が…)
ここが城跡の中心部かなと思わせる位置で、ふと見上げると、空堀が横方向に延びているのを確認しました。
一瞬、越前町小倉と笹谷の境界にある荒神ヶ峰城のことを思い出しました。規模と言い、周囲を空堀で囲うやり方と言い、そっくりです。

編集_あわら市東山上野山城跡の踏査2017年3月26日 (8)主郭部西斜面下の空堀と二条の竪堀(左)
偶然でしょうが、こんな城砦が越前の北にもあるんだ、という驚き…
つい先日、若越城の会で、若狭の駈倉山付城を見学したばかりです。この城跡も周囲に空堀が巡る単郭の砦跡でした。
最近、こうした単郭の周囲に空堀が巡る城砦跡の踏査が多くなっていて、何か、因縁を感じます。

編集_あわら市東山上野山城跡の踏査2017年3月26日 (9)主郭部平坦面(礎石が散見されるというが確認できない)
マ、それはさておき、上野山城跡は空堀(横堀)が北側で2条、東側で3条から4条。そして西側では竪堀をともなって1条廻っています。竪堀は南側から西へ回り込む空堀の先が竪堀となって下に切れ落ちています。

編集_あわら市東山上野山城跡の踏査2017年3月26日 (11)主郭部西側にある食違い虎口に続く土塁(主郭部から約50mほど延びている)
南側では東から廻る混む空堀が途切れて、3城の空堀が互いに食違い上の溝となって横に並んでいます。少し複雑です。
西側はだらだらとした緩斜面ですが、幅は狭く、その南辺は急斜面になっています。城跡の周辺をうろうろ歩いているうちに3時を回りましたので、寒くならないうちに下山する必要があります。帰りの足は尾根線を南西方角に、直接、川上集落側に下りるつもりで細い尾根線を下りました。
このルート上には遺構は確認できませんでした。

編集_あわら市東山上野山城跡の踏査2017年3月26日 (13)同虎口へつづく土塁(東から)
編集_あわら市東山上野山城跡の踏査2017年3月26日 (18)同虎口につながる土塁(東から、奥は後山の集落が展望できる)
3月26日(日)カメラの故障で現地の遺構写真を撮れずに、半泣き状態で帰りましたので翌日は別のカメラを持って、午前9時に再度登城を決行しました。

編集_あわら市東山上野山城跡の踏査2017年3月26日 (20)主郭部北側の空堀と土塁(東側から)
例によって細い谷筋の林道を歩いていると、ジムニーでとことこと登ってくる村人に出会いました。
どちらへ行くんですか、と訊ねられましたので、この山で調査しています、と答えると、私はこの先の谷の奥で大きな松が倒れていて、通行に邪魔になるので、チェンソーで切りに行くのだ、ということでした。

編集_あわら市東山上野山城跡の踏査2017年3月26日 (22)主郭部東側の空堀(向かって右は主郭部の高まり)
編集_あわら市東山上野山城跡の踏査2017年3月26日 (23)主郭部北斜面下の土塁と犬走(東側に回り込んでいく)
さらに奥へ進むと今度は別の集団の人たちに出合いました。トラックや重機に乗って5人がかりの人たちが何やら、谷川の護岸工事の段取りをしている風でした。

編集_あわら市東山上野山城跡の踏査2017年3月26日 (24)主郭南東隅の空堀
編集_あわら市東山上野山城跡の踏査2017年3月26日 (25)主郭北側(手前は空堀)
3月の第4日曜日で、村では水田や用水の清掃活動が行われる季節になっています。この川上か後山地区か、どちらかは分かりませんが、村の人が出て、用水に引く谷川の基部を修理するのか、と想像しながら城跡へと進みました。

編集_あわら市東山上野山城跡の踏査2017年3月26日 (29)主郭南西隅(手前は空堀)
城跡は二日目とあって、間違いなく、スムースに到着できました。
要所々々の写真をとりながら、ぐるっと周囲を回り、機能確認できなかった西側先端部を歩きました。先端部は矢や規模は小さいですが、低い土塁が互いに向き合って食違い上に並んでいます。ここが大手口か、と一人で頷きながらこれも写真に収めました。
位置的には南西方角で、急斜面になっていて、痩せ尾根です。こんなところから出入りをしたのか…、と半信半疑でしたがもう一度主郭部まで戻り、距離を確かめましたが、概ね50mほどでした。

編集_あわら市東山上野山城跡の踏査2017年3月26日 (30)主郭西斜面下の空堀(横堀)
編集_あわら市東山上野山城跡の踏査2017年3月26日 (32)主郭西側の食違い上虎口(東から)
遺構の写真も大体の枚数に達しましたので、また電池切れが起こらないよう、加減をしながら城跡を引き返すことにしました。午前中はきれいに晴れ上がっていたのですが、お昼近くになってから曇って来て、風が出てきました。少し寒く感じます。

編集_あわら市東山上野山城跡の踏査2017年3月26日 (35)食違い上虎口の土塁(北側部分)
編集_あわら市東山上野山城跡の踏査2017年3月26日 (38)主郭手前の平場で確認された曲輪と土塁
上野山城は木曽義仲の伝承の陣城とされていますが、遺構の状況から見て、やはり戦国末の山城だと思われます。大手は後山地区入口の南西方向の尾根筋。主郭部は見張台を兼ねた単郭の曲輪。北に隣接して広い平坦地の伏兵溜りをもち、主郭の南斜面には二重の堀を食違い上にかみ合わせた遺構が見られます。

河上城の遺構と言い、上野山城の遺構と言い、この二つの城はやはり大きな関連性をもった、ほぼ同じ時期の城砦と思われます。とても貴重な山城遺構だと思われますので、地元自治体の一般への活用・普及への方途を切に希望して止みません。
そんなことを呟きながら、今日の予定もなんとか終えられて、無事帰途につくことができました。
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COMMENT 2

怜の父  2017, 03. 28 [Tue] 09:47

2度の踏査、お疲れ様です。
2度行ってしまう程の山城ですね。
こんな綺麗に残っていてしかも、複雑な縄張りを持っている城跡がなんの案内もなしに埋もれているのは勿体ないですね。
木曽義仲の時代ではないのは明らかなのに、まだ研究されていないのも課題ですね。
朝倉家のでしょうか?一揆勢のでしょうか?織田家のでしょうか?
こういうのがわかると面白いですね。

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城歩きマン  2017, 03. 29 [Wed] 07:32

怜の父さん、コメントありがとうございます。
いつも貴重なご指摘、大変参考になります。

上野山城は明らかに河上城とセットで築かれた城砦と考えていいと思います。河上城は竹田口をおさえる砦、上野山城は主郭の周囲に広い平坦地をつくって兵を駐屯させるもの、その前線基地といった様子がうかがえます。

加賀山中からの一向一揆の軍勢を見張る城砦、後山地区に所領をもっていた深町氏か、柴田の時代に丸岡に配置された勝豊の家臣が陣取ったものか、はたまた朝倉の時代に永正の一揆で朝倉の家臣が陣取ったものか、いろいろと可能性はあるでしょう。

今後その一つ一つを検証していきたいと思います。

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