大野市小山城跡の踏査(1)

2017年3月小山城跡の踏査(ブログ用) (1)小山城跡遠景(南から)
2017年3月28日(火)大野市佐開城跡が残雪で登城不能となりました。
その代わりと言っては何ですが、佐開城跡から西にある北御門町と森政領家町の境に位置する「小山城跡」を踏査しました。すぐ東を真名川が流れ、西には清滝川が流れていて、ちょうど間に挟まれた地形上に位置しています。

2017年3月小山城跡の踏査(ブログ用) (24)小山城跡遺構模式図(『福井県の中・近世城館跡』より引用、一部改変)

小山城跡はこの北御門集落の北の独立丘陵上に所在します。標高は約30mで、室町時代の越前国守護であった斯波義廉が居城したと伝えられています。大野盆地の中で、ほぼ平野の真ん中に独立して残る丘陵の上に立地している山城は大野城をのぞけば、ここだけです。

2017年3月小山城跡の踏査(ブログ用) (2)村社「熊野神社」(この神社の境内奥から登城)
このあたり一帯は小山(おやま)荘の荘域にあたります。平安時代の末、長承2年(1133)までには藤原成通の私領として立荘されていたものといわれています。鎌倉時代の末頃には安楽寿院領になり、何ヶ所かは分割されています。
地頭としては鎌倉時代の初期には北条義時があり、同末期頃には伊自良次郎左衛門が知られます。

「越前国城跡考」では小山城跡として斯波義廉があてられ、「北御門村ヨリ四十間計東山上ニ在リ、大野ヨリ一里計東」とあります。
斯波義廉は応仁・文明の乱の一因ともなった斯波氏の家督争いの中心人物で、斯波義敏と熾烈な争いの末、この小山城に立て籠もって討死したとも言われています。

2017年3月小山城跡の踏査(ブログ用) (3)丘陵東端の痩せ尾根(笹藪となっている)
一方、『日本城郭全集』には小山城の記載はありません。また『日本城郭大系』には「小山城」として、享保の城跡考書上に言う「時代不知、大野ヨリ一里南ノ方医王寺村ニ有リ、城代、櫓台ノ跡アリ 又武衛山共云」との伝承を記載し、斯波義廉の築城であろうとしています。
また築城の特徴について考察し、曲輪を方形に丁寧にカットしていて、際立って優美な姿を有していると言います。これは独立丘陵上に築城したことによるとし、近世初期の平山城の形態を思わせると述べています。規模は南北に約250m、東西に約450mの範囲にわたります。
『福井県の地名』には興味ある記述がみられ、「北御門の南、二頂をもつ約30mの孤丘城山の上にあり、越前国守護斯波義廉の居城と伝える。北から平坦地が一ノ平から六ノ平まであったが、一ノ平、二ノ平は削られて消滅した」としています。

2017年3月小山城跡の踏査(ブログ用) (4)丘陵東端にある曲輪の土塁
前置きが随分長くなりました。
小山城の現状について報告したいと思います。
城跡は北御門集落の村社、熊野神社の背後の痩せ尾根から登城しました。背丈の低い笹藪があり、急傾斜です。
10mほど登ったでしょうか、さっそく小さな堀切が確認できました。その上を登りきると一番東の端にある曲輪に達します。

2017年3月小山城跡の踏査(ブログ用) (5)東側斜面下の腰曲輪
『福井県の地名』事典の引用に従えば、「六ノ平」に該当するのでしょうか。南東隅に低い鍵の手の土塁が遺存しているのを確認しました。
この曲輪の上に立って、左右の斜面(東西方向)を見下ろしますと10mほど下位にはっきりした幅の広い腰曲輪が延びています。両側で確認できます。
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