大野市佐開城跡の踏査(1)

2017年4月3日大野市佐開城跡の踏査 (1)佐開の村社「荒島神社」
4月3日(月)ついに大野市佐開城跡を踏査しました。先日(3月28日)踏査しようと現地に向かいましたが、雪が残っていて、その日は登城を断念したので、今回、改めて挑戦しました。


前回の佐開城跡踏査の続編です。

2017年4月3日大野市佐開城跡の踏査 (2)今回の踏査はオーソドックスに正面からのアプローチです(集落の西側にある大きな土取り現場の谷から登りました)
何度も踏査を試みようとしたアクセス方法は、集落の裏側、木落(きおとし)集落につながる林道からのコースで、林道から入れば、途中の藪漕ぎの苦労や距離を稼げると思ったからですが、結局、林道からのアクセスは雪などで無理だと分かり、実現せずオーソドックスに集落入口の田んぼのあぜ道から谷筋を伝って尾根に出るコースをとることにしました。

『中・近世城館跡』の遺構模式図にもそれらしい山路が記入されていましたので、見学道路が整備されているのかもしれない、と勝手に思い込んで登ったのですが…。
見学道路はなく、林業用の作業道のような、伐採樹木が整理されず乱雑に散らばっている荒れ道を何とかすり抜けて、谷の奥まで来ました。

2017年4月3日大野市佐開城跡の踏査 (3)急勾配の斜面をやっと上った尾根、しかしここも藪漕ぎで、視界は全くゼロ
しかし、この先は行き止まり、左右両側とも急勾配の杉の斜面がそそり立っています。向かって左側が城跡へつづく尾根線になるのですが、見上げるばかりの急斜面。道は全くなくて、よじ登る以外手はなさそうです。

這う這うの体でやっと尾根筋に出ることができました。ここからは尾根に沿って、城跡へと向かうことに。

2017年4月3日大野市佐開城跡の踏査 (4)もうひとつ向こう(西側)の尾根線が木々の間から漸(ようよ)うにのぞけます
佐開城は大野市佐開集落の、通称「神明山」の山腹に所在する山城で、堀切、土塁をともなう小規模の山城と紹介されていました。
「越前国城跡考」でも時代不知とし、『福井県の地名』事典には、応仁元年(1467)から文明7年(1475)まで斯波義敏が居城したとみられることを記述しています。

2017年4月3日大野市佐開城跡の踏査 (5)尾根線をしばらく歩くと、ようやく杉林になり、あたりの景色が見え始めました
室町幕府の重臣の一人であった斯波氏の家督争いにあけくれ、義敏は当時の総領家であった斯波義視の殺害に失敗し、越前に出奔します。この時に拠ったのが佐開城だと言われています。城の麓下には「殿屋敷」の字名が残り、義敏の居館跡と推定されています。

応仁・文明の乱で東軍が勝利した後も、越前では、主家である斯波氏と家臣の朝倉氏や甲斐氏らの覇権争いが続けられ、義敏は朝倉軍との戦いに挑むため、神明山城を出て二宮将監が立て籠もる土橋城(亥山城)に入城し、将監とともに籠城戦にうって出ます。
朝倉軍は文明7年(1475)、富田庄井野部郷での戦いに勝利し、義敏は孤立しますが、なおも籠城を続けようとしたため、朝倉孝景がこれを諫めて京都に送り返されることになります。その後、大野は朝倉氏が支配するところとなっていきます。
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COMMENT 2

midorishako  2017, 04. 09 [Sun] 06:53

越前と尾張

斯波氏は尾張の守護でもありました。織田信秀や信長の時代に、斯波義達、義銀などの人物が尾張守護として登場します。記事の義敏は、その人たちの先祖にあたる人で、斯波氏が越前、尾張、遠江の守護をしていて、羽振りのいい時の斯波氏です。織田氏そのものも越前から来たという説もあるので、尾張と越前は因縁が深いなあと思いました。

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城歩きマン  2017, 04. 09 [Sun] 07:22

midorishakoさん、コメントありがとうございます。

越前守護であった斯波氏は朝倉氏ほどは知名度がありません。室町時代の越前や尾張、越中や遠江までも領国だった時があり、幕府の管領までやったのに…

越前での斯波氏の影響力がどんなものだったか、戦い以外でもっと調べてみたいと思っています。

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