大野市佐開城跡の踏査(2)

佐開城跡遺構模式図佐開城跡遺構模式図(『福井県の中近世城館跡』より引用、一部改変)
さて、実際に佐開城とはどのような山城なのでしょうか。
『中・近世城館跡』のみが遺構図を載せていて、ようよう、遺構の概要を知ることができます。

2017年4月3日大野市佐開城跡の踏査 (6)城跡西側尾根線上の最初の堀切(北西から)
なるほど堀切や土塁、方形の曲輪がいくつか尾根上に並ぶ城跡と思われますが、幕府管領家の一人、斯波氏の居城としてはどうか、そんな簡単なものだろうか…。
2017年4月3日大野市佐開城跡の踏査 (7)主郭部の中央、土塁囲みの区画(北西から)
或いは斯波氏は、山城には意を介さず、麓の居館に防禦の力を注いだのだろうか、そんなことを思いながら遺構を見て歩いたのですが、とんだ当て外れで、それまでの先入観を一切捨て去る必要が出てきました。

2017年4月3日大野市佐開城跡の踏査 (8)土塁囲みの区画(北側半分)
遺構模式図にある西北から「殿屋敷」側に続く南の尾根線の曲輪まで、約500mにわたって、累々と曲輪、土塁、堀切が築かれています。曲輪の数だけでもざっと24ヵ所、派生する腰曲輪、段曲輪を含めると約40ヶ所になんなんとします。

2017年4月3日大野市佐開城跡の踏査 (9)主郭部(エリアA)東側に延びる派生尾根の堀切
煩雑になっていますので模式図を載せましたが、図のエリアAからエリアBを経て、エリアCまで遺構群をグループに分けてみていきたいと思います。

2017年4月3日大野市佐開城跡の踏査 (10)同堀切のさらに奥にある2つ目の堀切(西から)
エリアAは標高460m前後の最高所の位置にあり、土塁囲みの曲輪が複数ならんでいます。
エリアBはそこから東に尾根線が延びていくところで、鍵の手に折れ曲がって南に方向を変え、エリアCにつながっていきます。ここにも南側に折れ曲がった尾根上に、段カットされて格子目状に並ぶ曲輪があります。

2017年4月3日大野市佐開城跡の踏査 (11)同堀切を横から俯瞰(みごとなV 字カット)
エリアCは高低差のある斜面に段カットによって造成された曲輪が大小、規模はマチマチですが計10ヶ所前後ならんでいます。堀切で遮断することはしていません。
最先端部にも規模の小さな段曲輪が5基ほど並んでいますが、これらを含めるとこのエリアには曲輪群が密集したエリアと言えそうです。

2017年4月3日大野市佐開城跡の踏査 (12)堀切と堀切に挟まれた曲輪が階段状に3基並ぶ
エリアAの土塁囲みの曲輪は明らかに掻き上げによって築造されたもので、エリアCの格子目状の曲輪は削り落としによる造成とみられ、両方は明らかに異なる所為によるものです。

2017年4月3日大野市佐開城跡の踏査 (13)堀切と曲輪を望む(東側から主郭部のある方向)
後世の追加、修復による築造かとも思われますが、いずれにしても、この曲輪の構成は近江の上平寺城や弥高寺跡の曲輪造成に通じるものがあると思われ、大変貴重な遺構群だと言えるでしょう。

2017年4月3日大野市佐開城跡の踏査 (14)主郭部の南側半分(細長い平坦面が続き、土塁で仕切られる)
今まで規模の小さな山城と思われていましたが、この見方は大きく修正されなければなりません。
先日踏査した小山城や、従前からよく知られている戌山城に次いで、規模の確かな「詰城」跡としてよいかと思われます。
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