いわゆる『太平記』に登場する川口城とは?(2)

川口城と神宮寺城の見学 (3)かつて、福井考古学会の例会で踏査した折には、この谷道から登城しました。入り口脇には案内板も立てられていましたが…。
4月8日(土)あわら市にある川口城と神宮寺城を久しぶりに訪れました。
神宮寺(川口)城跡は地元金津町の郷土史家、(故)坂本 豊さんらによって保護、顕彰が行われた山城跡で、隣りの春日神社の別当寺であった神宮寺に由来する城郭という認識から出発しているらしく、南北朝期の川口城との関連で取り扱われることはなかったようです。


現に、戦国時代末の織田信長の越前平定に際して焼亡したという記録があって、その時期には存在していた城郭であろうと推察されます。
現地を歩いてみると、確かに標高54.1mの丘陵上に階段状に方形曲輪を配した城郭で、最高所にある曲輪が主郭と思われ、その裾部には腰曲輪や空堀(横堀)が廻っているのが確認されます。
連続はしませんが、主郭やその段下にある曲輪のまわりには要所々々に効果的に竪堀を配し、腰曲輪での横移動を制御しているように見受けられます。
土塁囲みの曲輪は見当りません。大ざっぱな把握ですが、これらの状況から、戦国時代の頃の築城とみて大過ない城郭遺構だと思われます。

川口城と神宮寺城の見学 (4)指中・中村区の東端にある春日神社(神宮寺城はこの別当寺として建立された寺が後に要塞化したものか、と言われています)
集落の東端にある当時の登城口からのアプローチで、谷伝いに階段状に段曲輪が10ヶ所以上並んでいることが確認されていて、にわか仕立ての陣城ではなく、多くの兵士を駐屯させ得る詰城と考えて良かろうと思われます。

その意味でも、南北朝期の川口城とは、ある意味で一線を画して捉えようとしていたことは蓋し当然の結果だったように思われます。

ただ、南北朝期の頃にこの神宮寺城が全く存在していなかったどうか、ということになるとこれを否定する積極的な理由もなく、南北朝期の頃にすでに築城されていたものが戦国時代になって改修されたと考えても、何の支障もないのもまた事実です。

指中集落背後の高台にある、従来の川口城が積極的に城郭遺構の証左を確認できていないことからも、神宮寺城を川口城の前身に充てる考え方は無理からぬことのように思われます。
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