越前町織田城跡の踏査

2017年4月13日織田城跡の踏査(ブログ用) (1)旧織田町上山中から平等へ抜ける山道から集落を望む
4月13日(木)、このところの雨で身動きできず、家でじっとしていましたが、やっと晴れ間が出ましたので、前から登ってみたいと思っていた越前町(旧織田町)の織田城跡を踏査しました。


2月頃に一度下見に立ち寄ったのですが、この時はまだどっさりと雪が残っていて、とても山歩きどころの状態ではなかったと思います。
桜の季節になって、樹々の葉っぱの芽が膨らみ始めたこの時期、もう大丈夫だろうということで、城歩きを決行しました。

2017年4月13日織田城跡の踏査(ブログ用) (2)室町時代の越前焼の窯跡が多く残る平等村へ通じる山道に据えられた林道設置の標識
この城跡については、戦国時代末の朝倉氏の家臣、朝倉兵庫助景綱が居城したと「城跡考」は伝えています。
また、『朝倉始末記』では天正2年(1574)5月の一揆方と兵庫助の戦いについて記述した行(くだり)があります。
兵庫助は一揆の来襲に備えて織田庄の民家などを襲い、家財や食料を奪って織田城へ運び入れ、籠城戦の準備を始めました。

2017年4月13日織田城跡の踏査(ブログ用) (3)上山中の集落から20分ほど歩いたでしょうか、山頂の城跡へ通じる林道が現れました
これに対して一揆方の大将、七里三河守や本覚寺その他の大坊主たちが大軍勢を率いて織田城を取り巻きました。
一揆の大将らは、朝倉兵庫助ほどのものが守る城にて、たやすくは落ちないと用心深く攻めたが、なかなか落城しませんでした。

2017年4月13日織田城跡の踏査(ブログ用) (4)織田町市街地側からも林道が開かれて、山頂部近くで合流しています
その後、専授寺の大坊主が業を煮やして「一気に攻めよ」と下知しました。そして大激戦となるのですが、5月の下旬になると、兵庫助は何を思ったか、夜陰に紛れて妻子ともども城を抜け出して姿をくらまし、敦賀に落ち延びたと言います。そして一揆勢が城を破壊して軍勢は帰陣したと言います。

2017年4月13日織田城跡の踏査(ブログ用) (5)いよいよ、山頂部に着きました。林道はここまできちんとつながっています。そして監視小屋のようなバラックの建物が…
それ以降の歴史には、この織田城が直接戦いの舞台になったことは記されませんが、信長が越前に再侵攻する、というので、一揆勢が越前の各所に城砦を構えて襲来に備える、という局面がありました。この時、織田城では一揆勢が一旦破棄された城に修復を加えて軍勢を配置する、ということはなかったでしょうか?とても気になるところです。
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