福井の城館めぐりを振り返って(5)

福井の城館めぐりをこの春、集中的に実施しましたが、言い残したことがたくさんあって、こうして補足の文章を何回にもわたって書き記しています。

今回は2月27日、3月1日、2日と3回に分けてアップした越前市の矢谷山城、地元では大塩城と呼んでいる山城について補足します。

2017年2月26日越前市矢谷山城跡 (21)越前市国兼町から矢谷山城(写真中央あたり)を望む
矢谷山城は、既に書いたとおりですが、『太平記』にも登場する城名で、特に「得江頼員軍忠状」の暦応3年から4年の条に得江ほか北軍が南朝方の城館を攻めたという記事のなかに大塩城、大塩保が登場します。

その後には城名として文書などに登場することはなく、「越前国城跡考」でも時代不知、築城主不明の城として扱われています。日本城郭全集でも日本城郭大系でも記載なし、または詳細不明の城としてずっと不明のままでした。

地元では木曽義仲伝説のほうを取り上げて、こちらの城として顕彰、保護をはかっているやに見受けられます。『太平記』よりも「得江頼員軍忠状」で登場することもあって、千福、妙法寺とともに荘園や神社仏閣が攻められ、焼き討ちにあったことから矢谷山城については顧みられることもなく、現地での踏査が十分行われて来なかった…

城歩きマンが現地の山城を踏査した限りでは、標高224.2mの水準点のある山頂部を中心に階段状の曲輪が並び、南、北、西側の各所に堀切(中には二重の)を配して防御態勢を取った山城遺構であることが確認できました。

遺構としては深くて、鋭く切れ込まれた堀切が目立っていて、それ以外には曲輪の構造にも新しい様相(時代が降る)は見られず、戦国時代末頃に修復されたような形跡は見受けられませんでした。

前回のブログアップした記事でも報告しましたように、この山城が一番評価されるべきは、古相をもった山城が大塩保に築かれていたことです。三方向からの嶺が集まる場所にあることで、城砦の役割ももたされた荘域の要の城とみてよいと思われます。
それにプラスして、麓下の大塩神社が要塞化した館城として機能したのではないか、ということが考えられます。
しかしこれについては、今後詳細な現地踏査が必要なことは言うまでもありません。
スポンサーサイト

COMMENT 0