福井の城館めぐりを振り返って(8)

2017年4月3日大野市佐開城跡の踏査 (7)エリアAのヨの字形土塁囲み曲輪
大野市佐開城跡の踏査によって、詰城の典型的な形態のひとつに出逢ったような驚きと感動を体感しました。

今回の2017年の春先に歩いた県内各地の山城は、その多くが城砦、陣城といった単郭を基本とした形態のものがほとんどでしたが、大野市の小山城跡とこの佐開城跡は素晴らしい規模と内容をもつ山城のひとつであることが分かりました。

2017年4月3日大野市佐開城跡の踏査 (13)ヨの字形曲輪の先にある階段状曲輪
前回の記事ではエリアAの状況を述べましたが、エリアBは尾根線がほぼ直角に西に振れて曲がるところから、西側の尾根線の一部までを曲輪群が並んでいる範囲を含みます。
エリアAの南半部は尾根の鞍部に相当し、細く、長く連なってエリアBの手前の堀切まで続きます。

エリアAとBの境界に土塁を有する大堀切が穿たれて、遮断線を形成しています。この堀切は先端部が竪堀となって、垂下していきます。

2017年4月3日大野市佐開城跡の踏査 (21)エリアBの連続する堀切
エリアBは南端部から尾根線が西に曲がって、エリアCの階段状の曲輪が連なる部分までを含みます。長さにして約120mほどでしょうか、途中土塁をもつ堀切で二分、三分されています。

2017年4月3日大野市佐開城跡の踏査 (19)エリアBの削り落としによる曲輪と土塁のひとつ
このエリアBでは削り落としによるものと思われる土塁区画が4、5ヶ所確認できました。背中合わせにしたような区画で、尾根の稜線部を境としてその両側に、断面L字カットで平地を作り出し曲輪とする方法かと思われます。明らかにエリアAの掻き上げ土塁の曲輪とは区別されます。

エリアBからエリアCにかけては尾根線の高度差が大きく、各曲輪の位置は段差が大きくなっていきます。
またエリアCの連続する曲輪はかなり広い空間を保持しながら、いくつもの平坦面を構成しています。ただ、それぞれの曲輪間には堀切や土塁などの防禦施設は設けていません。この点がエリアBやAとの大きな違いとなっています。

佐開城跡遺構模式図佐開城跡遺構模式図(『福井県の中・近世城館跡』掲載の図とは別に作成した概念図。エリアBの先に延びる東側支尾根の範囲については未踏査)
全体としては各平坦部を連続して配置した、曲輪の連続面によって構成された縄張で、主郭部にも食い違い虎口などの遺構は確認されませんでした。
その他の曲輪にも後出的な各曲輪の組み合わせ、特に枡形虎口や塁線の折れなども確認できませんでした。
さらには畝状竪堀など斜面に対する造作も見られず、その意味では、小山城跡と共に古相をもった山城の形態とみて差し支えないものと思われます。

近年、越前朝倉氏の築城技術の先進性について、いろいろと取り沙汰されているやに見受けられます。
それらの議論には、越前国内において朝倉氏とその勢力に連なる家臣団によって築かれてきた山城、そして朝倉氏滅亡後の山城築城の変遷については見直しもかけられず、実態についての比較検討は一部の論稿をのぞいてはほとんど行われていません。

朝倉氏の築城技術とは何か、という問題提起にはそうした事情が絡んで、容易には対応できないのが現実です。
朝倉氏が信長との対決による、国外各地の戦いで築城した山城の技術とそれまで越前国内で朝倉氏が施した山城の構築状況との間に大きな乖離現象がみられる…。これはどういうことなのだろうか。
言い方を変えれば、近江や京都で信長包囲網によって築かれた山城の技術と越前国内のものとの間には大きなヒアタスがある、という指摘。

実際には朝倉氏は国内では敵対勢力もなく、新たに城郭を築く必要性はない。それよりも、外へ打って出て戦線を構築する方が多かったのだから、築城技術は越前国内にはあまり残されずに終わった、という理解の仕方でよいのだろうか…。
一方では信長の勢力による山城構築技術よりも優れていた、とも言われる。しかし、現実にはそうした文書や何らかの記録があるかというとそうでもない。
朝倉氏が関わった、という山城の各々の縄張りの検討によって、そう判断されているにすぎない。その後に他の勢力が手を加えて修築していないのかどうか、その点が一番問題になっている。

繰り返しになりますが、今回、大野市内の各山城を踏査し、これまでの様々な種類の山城と比較してみても、越前国内には近江や京都周辺で見られるような構造の山城はほとんど見られません。
特に美浜町佐田にある中山の付城や岩出山城、あるいは敦賀市の金山城などの縄張の特徴をもつものは、越前国内では今のところ見出し得ないのです。
強いて挙げれば、丸岡町の雨乞山城、勝山の村岡山城、越前町(旧朝日町)の芝築地山城の3ヵ所ぐらいでしょうか。
これらの山城はいずれも織豊系の山城と考えられるもので、朝倉氏の勢力によるものではないと考えられます。
予断は禁物ですが、こうした視点を持って越前国内の山城の実態をつぶさに検討する必要性を今ほど感じた事はありません。近いうちにこの作業に着手する予定でいます。
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