一乗谷城―地域おこしと城山巡り(4)

20141201ブログ用3一乗谷朝倉氏遺跡下城戸(東側から)
さて、そんなこんなで、まず第一に紹介したいのはやはり一乗谷城です。
この山城は越前の戦国大名朝倉氏の居城であり、県内でも有数の規模を持つ山城です。国の特別史跡一乗谷朝倉氏遺跡の重要な城郭部分を構成していることもよく知られていて、これまでにも様々な書物や刊行物でも紹介されてきています。

山城の大半は安波賀町に属していて、隣りは旧美山町三万谷に接しています。標高473.5mの通称「一乗城山」の山頂を中心に遺構が展開しています。麓の城下町部分が城戸ノ内町に含まれていて、山城部分は安波賀町に属しているという、少し入り組んだ関係になっています。

城の規模は南北約600m、東西約180mの範囲にわたっていて、北から順に千畳敷跡、宿直跡、観音屋敷跡、赤渕神社跡、月見御殿といった山上御殿群が集中して並ぶ中心部分があり、その南に隣接して一ノ丸、二ノ丸、三ノ丸と曲輪が尾根線に沿ってならんでいます。

一ノ丸は千畳敷などの山上御殿群に直接隣り合ったところに位置していて、千畳敷などの曲輪を取り囲むように土塁や、空堀、腰曲輪が配置されています。

二ノ丸では支尾根が分かれていて、西側に延びています。この支尾根にも遺構があって、特に先端部には段曲輪、竪堀、堀切などの遺構があり、二ノ丸の出曲輪としての機能を持っています。その出曲輪との間は緩やかな尾根線になって、伏兵穴と呼ばれる凸凹がいくつか確認されます。

三ノ丸は山城部分の南端部にあって、標高も一番高いところに当たります。地形に沿って「コの字」形に折れ曲がる形をとっています。長さは約200mにも及び、面積的にも一番広い曲輪になっています。名称は三ノ丸となっていますが、最高所にあることと、面積や防御施設、例えば腰曲輪や堀切、あるいは畝状竪堀といった遺構が集中的に多くみられるのもこの三ノ丸であるといった理由で、この曲輪が主郭に相当するものではないかと思われます。

一乗谷朝倉氏遺跡武家屋敷、町屋遠景(中ノ御殿より)
一乗谷城は朝倉氏の7代当主、孝景(英林)が応仁の乱後に足羽黒丸城から、居城を移して築いた山城と言われています。そして文明3年(1471)から滅亡する天正元年(1573)まで103年間にわたって朝倉氏の詰城として機能した山城ですが、最後の当主義景はこの城で戦うことをせず、大野に逃れて自刃したために一度も戦いに使われることなく廃棄されたと言います。

しかし、城歩きマンはそうは思いません。
最後の城主は義景ではなく、滅亡後に越前の守護代を務めた桂田長俊(元前波九郎兵衛吉継)だと思われ、長俊が朝倉氏の城に修復を加え、140ヵ所余にも及ぶ畝状竪堀を施して富田長繁らの軍勢と戦おうとしたものと思われます。
これは、推測によるもので、確実な根拠があるわけではありません。より詳細な現地踏査あるいは発掘調査等を経た後に検証されるべきことだとは思いますが、今のところはそうした考え方で一乗谷城を整理しておきたいと思っています。
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