一乗谷城―地域おこしと城山巡り(5)

池田町梅田氏庭園他の踏査2016年11月13日 (1)旧美山町小宇坂にある小宇坂城(南から)
一乗谷城は規模が大きいと紹介しましたが、単に面積的に広い範囲をもっているというだけではありません。
この城を支えている支城、あるいは出城という防禦機能をもった山城が周囲にいくつも配置されていることも、規模を大きいとした理由になっています。

一国一城の主、越前国の大名の城ですから、当然、この城を防禦する城が築かれているのもまた当然の結果だろうと思われます。
北から成願寺城、東郷槇山城、東大味城、三峰城、東に小宇坂城が位置していて、それに該当するだろうと思われます。
それぞれの城には城番が置かれて、維持、管理されていたと思われます。

東大味町明智神社他2016年6月10日 (4)福井市東大味町にある東大味城と明智館の方角を望む
成願寺城は福井市成願寺町にある山城で、前波氏の築城と伝えます。足羽川の右岸、成願寺山の尾根線上に連続して曲輪が並ぶ、連郭式山城です。この山城には古墳群も築かれており、複合遺跡群と考えられます。同じ例は一乗谷でも確認され、一乗谷城の谷を挟んで向かい側の西の山嶺、八地山も御茸山から続く古墳群があり、複合遺跡になっています。

成願寺城は足羽川に沿って、平野側から侵入してくる敵をまず第一に防ぎとめる役割があったと思われます。本城の一乗谷城へ敵の動きを伝える城砦の役目も果たしていたものと思われます。

城主であった前波氏は朝倉氏の重臣の一人であり、城守が置かれて常に足羽川下流域と一乗谷周辺の警固に当たっていたものと思われます。詳細は別項で改めて述べることとします。

成願寺城遠望福井市成願寺町にある成願寺城(南から)
東郷槇山城は福井市東郷町小安にある山城で、朝倉氏の一族正景によって築城されました。また朝倉氏滅亡後、天正12年(1584)に秀吉の家臣長谷川秀一が越前に入部し、足羽郡と大野郡の一部を拝領して東郷に城下町を建設します。槇山城は修復が加えられ、城域の南半部は一部に石垣をもつ曲輪に変貌を遂げたものと考えられますが、現在、石垣は顕著には確認されず、多くは埋もれているものと推定されます。

一乗谷の西側、八地山と地続きになっていて、これも一乗谷城から月見櫓を経て、槇山城へは直近で到達でき、平野側からの敵勢の侵入を食い止める重要な役割をもっていたものと推定されます。詳細は別項で述べることにします。

編集_IMG_20170516_0001_NEW一乗谷城を中心とした出城配置図(国土地理院の地図を参照し、一部改変しました)
東大味城は福井市東大味の集落背後にある山城で、一乗谷の大手に通じる街道の入口に位置しています。朝倉氏の家臣、中村氏の居館跡が麓にあったことから中村氏が築城した山城と考えられますが、『朝倉始末記』等に登場するどの中村氏かは現在のところ不明です。
一乗谷城の築城と密接な関係をもつ山城とみて大過ないと思われます。

三峰城は福井市鹿俣町と鯖江市上戸口町にまたがる地籍にあって、一乗谷の大手口から水落、府中をにらむ要の位置に所在しています。
かつて、南北朝期には南朝方の脇屋義助、平泉寺衆徒らが斯波高経ら府中に拠点を持っていた北朝方と戦うために、この山城に立て籠もったと言われています。三峰城は別項でも詳しく紹介します。

小宇坂城は旧美山町小宇坂に所在し、足羽川が大きく蛇行して羽生川と合流する地点を見下ろす南側の丘陵上に位置しています。一乗谷城の位置から見て、搦め手の部分に当たり、大野、池田からの敵の侵入を防ぐ役割が与えられた山城ともなっています。
特に、足羽川上流域、池田荘から大野郡丁(ようろ)、牛ヶ原に向かう道筋を睨む重要な位置でもあり、確実に一乗谷城と一体となって機能した山城と言えるでしょう。
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