出雲・因幡の史跡めぐり(2)

9山中御殿全景(七曲りから)七曲りから見た山中御殿全景
2017年6月1日から3日まで出雲・因幡の史跡めぐりを敢行しました。
1日(木)は福井から北陸自動車道、舞若道、中国自動車道、米子自動車道を通って安来市さぎの湯温泉に宿泊しました。
2日目は二手に分かれて、足立美術館巡りと月山富田城見学をしました。城歩きマンはもちろん、富田城の見学に回りました。

過去に2度訪れているのですが、いずれもきちんと城跡を見て歩いていないので、今回も全部見られるわけではありませんが、少しでも見ておこうという執念で、特に山城の曲輪を中心に歩きました。

この富田城跡はまことに規模が大きい山城・居館群で、備後の吉田郡山城に優るとも劣らない城郭だと思われます。たった2時間ほどで見て回ろうというのは、あまりに無謀な、大それた思い付きだと恥じ入った次第。

6月山富田城遠景道路から見た富田城遠景(手前の高台は千畳平)
ここは謙虚に、できる範囲で見ていきましょう。
2時期、3時期の修築があったとはいえ、大規模な曲輪群ですね。飯梨川(旧富田川)に面した千畳平、太鼓壇、花ノ壇、能楽平、大東平などなど規模の大きな屋敷が並ぶと思われる曲輪、特に先端部にある千畳平は遠くからでも整備された状況が想像できるほど平らになっているのが分かります。

これらの曲輪群の奥に鎮座しているのが山中御殿と言われる本城の中核的な曲輪。この曲輪は北側の菅谷口、西側の御子守口(みこもりぐち)、南の塩屋口からのそれぞれの城道がここで合流するようになっていて、まさに中核をなす曲輪であることが分かります。

7富田城大手門跡富田城の大手門跡
周囲は土塁石垣で囲われていて、虎口は西側の御子守口から谷筋を通って入ってくる入口かと思われます。大手門跡として石垣の修復整備が行われました。しかし、この門付近は大きく削平が行われて、正確な旧状は望めません。

富田城はもと山名、京極氏が出雲守護として領国経営をしていたころからの居城であったと思われますが、文明16年(1484)に守護京極氏によって追放された守護代尼子経久が、一年後に富田城を奪回したと言います。
その後尼子氏は破竹の勢いで出雲一国を統一し、因幡、伯耆、備前、備後、安芸国などを手中にして中国地方の大大名にのし上がったという話はたいへん有名ですね。
そして永禄年間に毛利元就の侵攻によって幾度も戦いが繰り返され、尼子氏は調略によって難攻不落を誇った富田城を開城しました。
天正19年(1591)に吉川広家が富田城に入城し、改修が行われました。また、吉川氏のあと、慶長5年(1600)には堀尾吉晴が入城し、本格的な近世城郭としての体裁が施されましたが、6年後には松江に城下町を移しています。

8山中御殿全景七曲り登り口から見た山中御殿
尼子時代の城の名残りがどの程度、今の富田城に遺されているのかは定かではありませんが、尼子氏のあと、吉川氏、堀尾氏が手を加え今の富田城になったというのは確かであり、城の構造の把握はそこからしか始まりません。

今回ははじめにも書きましたように、とても全体を見て回る時間はありませんでしたので、せめて山城の曲輪だけでも、と思い三ノ丸、二ノ丸、本丸へ登城しました。七曲りは急登でしたが興味のほうが優って、肉体的な辛さはあまり気になりませんでした。

10親子観音(堀尾勘解由の墓か)七曲り道の途中にある親子観音(堀尾勘解由の墓か)
手前の三ノ丸に着く頃には辺りの景色は一変して、とても見晴らしの良い高台となりました。
11七曲りから三ノ丸を望む七曲りから三ノ丸を見上げる
ここからは地形がほぼ水平に移行しているようで、二ノ丸、本丸も同じような平坦地(東西に細長く地均しされていますが)を一番奥の「勝日高守神社」の鳥居があるところまで進みました。距離にして約350mあります。曲輪の北と南の両斜面は急角度で切れ落ちています。
12七曲りから日本海を望む三ノ丸から日本海方面を望む
この地形、曲輪の状況はたとえば越後村上城の本丸、二の丸、三の丸の形状や近江八幡城の曲輪、伊予の松山城、備中高松城、さらには岩見の津和野城、福井では越前大野城などに類似点を見ることができます。

13三ノ丸(西から)三ノ丸全景(西から、奥に二ノ丸の復元建物が見える)
何れの城も切り立った急崖の尾根線上に累々と曲輪がならんでいる状況。しかもこれらの城は天正から慶長期までの頃に修復、改修が加えられたものばかり。共通していて当たり前…、と言われればそれまでですが。
これはたまたまそうなったのではなく、この時期、こうした城の遷地に対する考え方が敷衍していたものと思われて仕方ないのですが――。
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