大黒丸城―地域おこしと城山巡り(19)

編集_福井市三宅黒丸城の踏査2017年7月7日 013布施田橋東詰から三宅黒丸城を望む
久々に福井県の城館のご紹介に戻ります。

大黒丸(おおぐろまるじょう)城跡は福井市三宅町と黒丸城町が接する高台の一角にあります。別名、三宅黒丸城とも言います。
大黒丸城の名前の由来は、後世に足羽庄の黒丸城を出城または子城と見立てて「小黒丸城(おぐろまるじょう)」と言い、大黒丸城は坂井郡で、根城に相当すると考えて大黒丸城と呼んだことからきています。

南北朝時代に朝倉氏が越前に入って後、延文2年(1357)足羽庄の預所職を得たのを皮切りに貞治5年(1366)には越前国内の7ヶ所において地頭職を獲得し宇坂庄、東郷庄、坂南本郷、河南下郷などの各庄園を統括するのに有利な場所に築いた城郭が黒丸城と思われますが、江戸時代の文書である「越前国城跡考」には大黒丸城として朝倉広景、高景、(英林)孝景の名をあげています。
「小黒丸城」の項では城主を斯波高経の名をあげて記載し、足羽七城のひとつとも言っています。

編集_福井市三宅黒丸城の踏査2017年7月7日 007三宅黒丸城跡を記す説明板
プロフィール
福井出身の歴史地理学者小林健太郎さんが、かつて福井県内に分布する城館を追跡し、地理学の方法を用いて分布の在り方を研究しています。そのなかに一乗谷城の前身の城館として黒丸城(三宅)を取り上げ、70m四方に堀、土塁が廻る単郭方形館ではないかとしています。

現地を訪れてみると、確かに三宅集落の背後の丘陵高台の一角に堀と土塁が廻る居館跡が今も竹藪や雑木の生い茂る中にひっそりと遺っています。西側半分は土取り工事によって削り落とされていますが、小林さんが調査してから後は、大きな破壊行為もなく概ね現状をとどめているように思われます。
三宅町の高台は熊野神社の境内域にもなっており、古墳が重なって存在していますので、もう少し周辺を詳しく踏査すれば、また新しい事実が発見される可能性は大きいと思われます。三宅町側の細い路地道を歩いていくと、ちょうど新しく敷設された国道416号線の交差点に出ますが、この交差点付近に祠と古い石塔群が並んでいる場所に遭遇しました。

この場所に説明板が立っていて、三宅黒丸城跡と記しています。その脇には石塔が並んでいて、如何にも、の感がする佇まいです。石塔群は五輪塔、宝塔(幢)、宝篋印塔などの各部位を組み合わせて並べた格好ですが、当時は幾体もの石塔が並んでいたのでしょうか?別の場所にも石塔の残片が並んでいるのがあって、ある研究者に言わせると、この三宅黒丸城は本当は居館跡ではなく、寺院跡だったのではないかと疑問視されています。

編集_福井市三宅黒丸城の踏査2017年7月7日 008説明板のすぐ脇に並ぶ石塔群
一押しのスポット
いずれにしても、同じ黒丸の地名をもつ居館跡として知られていながら、足羽黒丸城(小黒丸城)のほうは、すっかり耕地化されて城館の痕跡を残していないのに比べ、三宅黒丸城は半壊にも拘らず居館の遺構が残っている、ということが歴史的に見て大変重要なことと思われます。これ以上の土取り工事は断じて避けなければなりません。
唯、削平されたままの状態でもあり、何らかの理由で崖が崩落する危険もあります。今後のためにも安全対策を講じる必要があるでしょう。

編集_福井市三宅黒丸城の踏査2017年7月7日 011村の西側の道路わきに並ぶ石塔群
アクセス
乗り物でアクセスする場合は、京福バス「川西三国線」に乗車、黒丸城で下車。北へ徒歩約10分。自家用車でアクセスする場合は、近くに駐車場がありませんので北隣にある宗教団体「霊法会福井講堂」で許可をもらい、そこの駐車場に留めさせてもらうようにしましょう。

三宅黒丸城遺構概念図(小林健太郎1963)小林健太郎1963の文献より引用、一部改変(補足の項参照)
補足
※「越前国城跡考」=江戸時代に編纂された、越前国内の古城跡、館屋敷跡等の悉皆調査記録書のこと。
※小林健太郎1963「中世城館の歴史地学的考察――戦国大名領国の地域構造研究への試み」『人文地理15-4』
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