細呂木館―地域おこしと城山巡り(22)

細呂木関所跡細呂木集落の中ほど、観音川(細呂木川)のほとりに立つ関所跡の説明板
福井市域の城山巡りから福井の北、あわら市へ場所を移してみましょう。

この地域は福井平野の大部分を占めていて、九頭竜川をはじめ、竹田川、兵庫川、磯部川などコメどころの福井平野(この場合は坂井平野とも言います)を潤す用水が縫うようにして西流しています。越前斎藤氏の基盤を支えた福井平野には、多くの居館跡が知られていますが、周辺の丘陵で山城と呼べる遺跡は案外少ないのが実際です。


この点は大和や伊勢の中世城館、山城の分布とは事情が違って、意外と希薄な状態です。それでもこのあわら市、坂井市には紹介するに足る、著名な、また歴史的に見て重要な山城がいくつも点在していますので順を追ってこれからご紹介することにしましょう。
細呂木館跡遠望(北から)細呂木館跡遠望(北から)
プロフィール
その第一弾として、あわら市の北、北潟湖の岸に位置する細呂木館(城)跡をとり上げてみましょう。城歩きマンのブログでは2013年3月23日「国境の城と旧北陸道」、2015年4月20、21日「吉崎御坊と細呂木館」1,2で取り上げていますので、ご参照ください。
細呂木と聞けば、先ず第一に思い浮かぶのは“関所”です。
加賀国と越前国の境に位置し、中川、牛ノ谷を通る北陸道の「官道」に対して“脇往還“として重要な交通の要の役割を果たしていました。近世以降には金津に奉行所が置かれて交通の監視を担うようになりますが、それまではこの細呂木の関が直接、越前と加賀の往来を監視していました。

細呂木館跡遠望(南から)細呂木館跡遠望(南から、向かって右側に大堀切)
)細呂木館の城主は細呂木氏で、芦原一帯を支配していた堀江氏の支族と言われています。応仁・文明の乱では文明5年(1473)、甲斐敏光が加賀から越前に侵入して、越前朝倉勢と戦ったことが記録にみえ、一旦は勝利しましたが、その勢力を維持できず細呂木を撤退し、同じ年の10月に河口庄や坪江郷に侵入して付近を焼き払ったと言います。

さらに興味深いのは、戦国期の永正年間に二度、三度と加賀・越前の一向一揆が越前に侵攻し、朝倉勢と死闘を繰り広げたことがありましたが、このことがきっかけとなって朝倉氏は10数年間細呂木を海上も含めて封鎖し続けました。
その後、北陸に荘園を有する大寺院や公家衆は困り果てた末に、幕府にこのことを訴えてようやく封鎖が解かれたと言われています。

細呂木館跡模式図細呂木館跡遺構模式図(左側が北潟湖)
細呂木館は細呂木集落の西に突き出た半独立丘陵の丘頂部(標高37.2m)に築かれています。北と西は急峻な崖で、特に西側は当時北潟湖に直接面していたようです。東側は幅20m、長さ100mにわたって台地を掘り切り、なだらかな東側部分とを遮断しています。

館跡はこの丘頂部の一帯に築かれ、南北で二段に亘り、北側の長方形の区画には土塁が廻っています。一段低い南側の平坦地は現在春日神社の境内となっていて、後世に大きく地形が改変されています。
しかし、この南北二段の平坦地に館跡やその他の施設があったことは確かだろうと思われ、東側の大堀切を越えて、さらに東側にも遺構の一部が広がっていた形跡も認められます。

一押しのスポット
細呂木館は、北潟湖に面して突き出た半独立丘陵上に築かれています。室町、戦国時代にはここで通行人を取り締まっていたものと思われますが、この形態は福井市の西に位置する安居城でもよく似た地形に築かれていて、その共通性が指摘できます。安居城も未更毛川をさかのぼって、越前海岸へ抜ける物資や人の通行を監視していた“関所”と考えられます。
ここから東に向えば、指中、沢を経て牛ノ谷の谷道に入り、熊坂、大聖寺をとおり北陸道に合流することができます。江戸時代になると関所は、麓下の観音川(細呂木川)左岸のたもとに移りました。

アクセス
JR北陸線で細呂木駅下車、約2.8㎞の距離で指中、樋山方面を徒歩約40分で現地着。自家用車でアクセスするときは、北潟湖福井工大あわらキャンパスを目標に進み、手前の細呂木集落までくれば目的地。
近くには駐車場がありません。許可を得て、集落内にある湖東会館の駐車場に停めさせてもらうようにしましょう。
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