坂井市丸岡城跡―地域おこしと城山巡り(30)

桜と丸岡城丸岡城天守(西側から)
地域おこしにちなんだふくいの城跡を紹介するシリーズは、坂井郡域の中でもっとも著名な丸岡城まで辿りつきました。
あまりにも私たちにとって身近な存在になりすぎているため、正面切ってとり上げることはなかったのですが、今回はこのシリーズの目玉のひとつでもあることから、きちんとご紹介してみたいと思います。

プロフィール
丸岡城は坂井市丸岡町霞にあります。前回ご紹介した豊原寺、雨乞山城からはほぼ真西の方角にあたり、小高い丘の上に屹立するように立っています。

編集_IMG_20170831_0002_NEW丸岡城案内リーフレットより
築城は柴田勝家の甥、伊賀守勝豊が天正4年(1576)から始め、七年後に勝豊が長浜に移封される頃には完成を見ていたものと思われます。現在の姿になったのは結城秀康が慶長6年(1601)に福井に入城して以後のことと考えられ、丸岡城には今村掃部(かもん)盛次の後、本多飛騨守が丸岡藩主として入城し、元禄8年(1695)まで本多氏が4代続きます。

昨今、丸岡城や愛知県犬山城など現存天守の中でも最古の部類に入るかどうか、といった議論が否定的な見方に変化してきている中で、今後、国宝化の問題と併せて築城年代の議論はもっと市、県民の方が注目していただきたい問題だと思われます。
丸岡城の天守は昭和23年(1948)に福井地震で倒壊し、石垣と共に残った部材を利用しながら再建した天守として、重要文化財に指定されています。

編集_IMG_20170831_0001_NEW丸岡観光協会発行パンフより
構造的には二重三階の望楼型天守の部類に入るとされています。一階部分の御殿風建物に物見台、望楼としての二階部分を載せた形式ということでしょうか。
屋根は当初杮葺だったものが、本多氏の時代にシャクダニ石製の石瓦に替えられたものと言われています。天守のある本丸を中心に北側の平地部分に二ノ丸、北東側に三ノ丸、東ノ丸が配置されました。本丸御殿はこの天守のある高台に隣接していたものと考えられています(復元図参照)。

丸岡城復元図『日本名城百選』小学館より引用
天守のかたちが望楼型で一階部分が御殿風建物だったという状況は、実は越前大野城でも天守が御殿風建物だったという点で共通しています。
もっとも大野城は最後まで望楼型の物見台、少なくとも今見るような天守は建てられることなく明治を迎えたと言います。その点では、丸岡城は、いつかの時点で望楼型の天守が載せられているので、大野城とはちがうと言えば違うのですが…。

丸岡城復元見取り図丸岡城の復元図(吉田純一1994『福井の城』フェニックス出版より引用)
一押しのスポット
さて、丸岡城は最古の城郭建築に入るかどうか、議論は尽きないのですがもうひとつ、議論の種をとり上げたいと思います。

それは、石垣です。丸岡城の石垣は少なくとも昭和23年(1948)の地震で倒壊したと言いましたが、石垣ももちろん崩落してしまいました。その意味では積み直しが行われているのは当然です。そして、地震倒壊前の古写真を見ると天守石垣の積み方は反りがなく、斜めに直線的に積み上げられていますが、復興天守の石垣を見ると、わずかですが反りが加えられています。これはどうしてでしょうか?石垣の隅角に反りがあるのとないのとでは大きな違いがあります。

丸岡城も大野城も石垣の積み方は、いわゆる野面積みです。隅角の石には算木積みは見られません。大野城も然りで、共通しているのですが積み直しが行われているという点では同じです。プライマリーではない、というのが弱点になっています。

アクセス
丸岡城へはJR福井駅から京福バス「丸岡線」でバス停「丸岡城」下車、自家用車でアクセスする場合は、丸岡インターから北へ5分の距離です。城跡の周囲に駐車場も完備されていますのでご利用ください。

補足
※丸岡城は島根県松江城の国宝化に刺激を受けて、一昨年より、坂井市上げて国宝化へ向けたいろいろな取り組みを行っています。城歩きマンとしても国宝化に向けて、出来るだけの支援を惜しまないつもりですが、道は遠いように思われます。
一日も早く、周辺整備の計画(本丸、二ノ丸堀の復元、本丸天守付近の石垣の積み直し等、特に北側のコンクリートブロックの石垣は撤去するべき)とその実現に力を入れていって欲しいと願っています。
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