坂井市長崎城跡・舟寄館跡―地域おこしと城山巡り(31)

編集_DSCF3756長崎館(城)遠景(東から)
坂井市を含めて、福井平野周辺での城館をご紹介するのはこれが最後となりました。平地の居館跡、長崎館(城)跡と舟寄館跡です。どちらも坂井市丸岡町に所在する居館跡です。

福井県最大の沖積平野を流れる三大河川、九頭竜川、日野川、足羽川によって形成された福井平野には数多くの中世以来の居館跡が遺されていました。しかしながら、それらの殆んどは水田開発を主とする農業経営、あるいは人口増を補償する宅地開発のために削平され、根こそぎ削り取られて消滅していきました。

少なくとも戦後の農業構造改善事業が始まる頃までは、いわゆる「地籍図」という水田や宅地の区割りを示す図面とほぼ合致する地形が遺されていましたが、その後にどんどん地形が改変を受けて、居館跡など平地の遺構は姿を消してしまいました。埋蔵文化財、とまでは言わずとも、遺跡が残っている、ということに無頓着だった意識への代償がこのありさま。

福井県内では奇跡的に残っている居館跡として、坂井市の御簾尾館跡、長崎城跡、越前市の大窪鎌太館跡、一乗谷朝倉館跡、南越前町の杣山城御屋敷跡ぐらいでしょうか。
特に坂井市域の平地にあった居館跡はことごとく消滅していきました。まったくもって惜しいことをしました。城歩きマンが文化財に関わる以前の時代でもあり、如何ともしがたい一面も有りますが、福井県のみならず多くの地域でも然りの状態だろうと思われます。

編集_DSCF3762長崎館は時宗道場称念寺の境内と重なっています。南北朝時代に南朝として活躍した新田義貞が討死し、その遺骸がこの寺に葬られたことはよく知られています。新田義貞墓所(南から)


プロフィール
さて、愚痴っぽい話になりました。本題に入りましょう。
長崎城(館)は坂井市丸岡町長崎にありますが、「越前国城跡考」では舟寄城(館)と長崎城を混同したような記述で掲載し、城跡考に言う舟寄城が本当は長崎城ではないか、としています。

長崎(館)城地籍図長崎館遺構模式図(『福井県の中・近世城館跡』より引用、一部改変)
じつは舟寄城と長崎城は隣同士で、非常に接近した位置にあります。長崎という大字は称念寺の周りだけで周囲を取り巻く広い範囲が舟寄の地籍に入ります。そこから舟寄城と長崎城が同一ではないかという憶測を生んだとも言えます。
長崎館(城)は東西約110m、南北約140mの不規則な五角形をなす称念寺境内を中心とした範囲に所在します。現在、南側、東側の境界に堀・土塁跡が残り、当時の面影を辿ることができます。地籍図には称念寺の北半分が願成寺、西と北隣りに西門、北門の字名が残っています。

舟寄館地籍図舟寄館遺構模式図(『福井県の中・近世城館跡』より引用、一部改変)
これに対して舟寄館は約500m北に位置していて、東西約110m南北約80mの長方形をなす地形に北辺以外の三方向に土塁跡を地籍図で確認できます。また地籍図に館ノ前、館ノ後、東古町、西古町、法華坊などの字名が残っていて、先の長崎城ともども金津へつながる北陸道と豊原寺へ向かう道との交差点を中心に発達した街道町(あるいは市町)の様子を伺うことができます。

長崎館(城)は応仁・文明の乱で戦場となり、朝倉孝景と甲斐敏光の軍勢が戦い、孝景の軍が大勝、敏光は加賀へ逃げ延びました。
さらに朝倉氏の時代には、永正元年(1504)に斯波氏・甲斐氏らの残党が加賀一揆らと共に越前に侵入し、朝倉貞景らの軍勢が長崎に陣を構えて、この軍と戦い撃退しています。

また天正2年(1574)川北の一揆勢により、朝倉恩顧の武将であり、後に信長方に寝返った黒坂與七らの居館、舟寄館が攻められ一族が滅ぼされています。

一押しのスポット
舟寄館は現在、日東シンコー(株)の工場敷地になっていますので、案内板で確認する程度しかできません。遺構の状況は偲ぶよすがもありません。
長崎館(城)のほうは寺院の境内でもあり、特に東側から南側にかけての森が当時の居館跡の様子を偲ぶ風情が微かに遺されていて癒されます。また周辺の水田のあぜ道には、圃場整備工事の直後、門前町だったことを示す陶磁器や木製品などの遺物が数多く散乱していました。

アクセス
JR丸岡駅から京福バス「丸岡永平寺線」に乗車し「舟寄」で下車、すぐ前の「日東シンコー」工場敷地内が舟寄館、そこから南へ約450m進んだところが長崎称念寺です。自家用車でアクセスする場合には長崎称念寺の墓地前にある駐車場に、許可を得て停めさせてもらうようにしましょう。「日東シンコー」には見学用の駐車場はありません。ご注意ください。

補足
※「館」と「城」の違い:文中で館と城を使い分けて使用しています。どう違うのか、長崎城という場合と長崎館という場合では意味が変わってきます。もちろん、古文書で両方書かれているからでもありますが、館と書かれた場合は居館としての意味合いになり、城と書かれた場合は合戦や戦いがあって、兵が立て籠もった城として呼んだ場合の意味になります。

あるいは居館と城郭が別々に備えられていたものを区別して呼んだ場合もあります。例えば朝倉館といった場合は平地の朝倉館を指し、朝倉城といった場合は山頂部の一乗谷城(ふつうはこの呼び名が一般的)を指します。
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