福井市石盛遺跡と鯖田国富庄

石盛遺跡掘立柱建物
石盛遺跡で見つかった掘立柱建物
11月23日(金)勤労感謝の祝日の日に、福井市石盛町で調査が行われていた石盛遺跡の現地説明会がありました。この遺跡は南北朝期の新田義貞らの居城であった石丸城がある場所から、西に400mほど離れたところにあります。古い字名では堀田、寺田と呼ばれている付近です。
昨年から発掘調査が行われていて、今年は2年目にあたります。面積は公園予定地の北半部で約360㎡(40m×90m)です。発見された遺構は弥生時代から古墳時代、古代、中世と各時代の遺構を含みますが主として古墳時代の集落跡ないしは役所跡かと思われ、掘立柱建物や、井戸、溝などがあります。
多数の土師質器、須恵器などのほかに勾玉や円面硯、風字硯(破片)が出土しています。さらに緑釉陶器の碗もみつかりました。昨年の分も合わせると、掘立柱建物は6棟になります。墨書土器や硯も出ていますので官衙か、それに近い建物群と考えられるとのこと。
調査にあたった職員の説明によると、このあたりは古代の東大寺領荘園であった「鯖田国富庄」の一角にあたるのではないか、と指摘し今回の調査地がその中心部になるのかもしれない、と推定しています。
大化年代以後しかれた条里制ラインがこの石盛町から東の栗森町、河合寄安町に向かって確認され、石盛町辺りは坂井郡西南五条のラインにあたり、栗森、河合寄安で南北に交わるところは「二味田里」、さらに1町東は「一息長田里」となっています。条里は九頭竜川で途切れています。
こうした調査の成果を聴くにつけ、思い起こされるのは、石盛町から東にある丸岡町牛ヶ島の古墳の石棺です。牛ヶ島は丸岡町の市街地から南に離れた旧高椋郷にあたります。昔、水田から出土したと言われていて平地に築かれた首長墓と考えられます。高椋郷、磯部郷、さらに河合周辺の鯖田国富庄まで勢力が及んだ地域の首長クラスの墓と考えられるのです。
また、時代は戦国時代まで飛んでしまいますが、天正2年(1574)本願寺から守護として派遣された下間筑後法橋は一揆との主導権争いから合戦に及び、森田八重巻から出撃した近郷の一揆軍と牛ヶ島で戦っています。
中世から戦国時代にかけて、頻繁にこの河合庄周辺が歴史に登場してくるのはこうした背景があったからだと思われ、いよいよ興味がわいてきます。
スポンサーサイト

COMMENT 0