築城記をよむ

先日ふとしたきっかけで、一乗谷城について電話で取材を受けました。NHK中部ウィークエンドの番組制作の関係者という人からでした。
近々一乗谷城をテーマにした番組をつくりたいので、話を聞かせてほしいということでした。いろいろと一乗谷城について質問がありましたが、久々のことで、懐かしく思い出しながら質問に答えていました。
最近は、一乗谷について聞かれた時は、昔みたいにその構造やら、特徴やらを縷々はなすよりも、如何にしたら一乗谷へ登ってもらえるか、ということが気になるようになりました。今回も、NHKの関係者からぜひ、一乗谷城へ登りたいので案内してほしいといわれましたが、一乗谷城がどんなに素晴らしい山城で、見学者をどうしたら山城へ導けるか、その魅力をどう引き出すか…等々。
結局、予定された日は雪が降ったために登城はあえなく延期、ということになりました。
その思案の日が続く中で、いろいろネタ探しをやったのですが、他の山城と比較しても絶対面白い話題になるような、大きな特徴があることを今頃になって(?)思い出しました。それはあの「築城記」を相伝していた朝倉氏が築いた山城であるということ。
「築城記」は今では人口に膾炙していて、知る人ぞ知る築城のお手本のような書物です。「用害の記」とも呼ばれています。歴史家の人や建築家の人、またお城に興味のある人は大体知っている古文書です。しかも、理念よりも実際の作業を詳しく記した実務的な手順書といえます。記述は全体で44条にのぼります。
この文書が城郭研究者や歴史愛好家から常に引き合いに出されて注目されるのは、第43条に書かれた「山城にはタツ堀しかるべく候」の記述です。
一乗谷城にある140条にも及ぶ畝状連続竪堀の記述と関係して、その解釈の方法がいつも話題となっています。「築城記」が成立していた永禄8年前後頃には「竪堀」が意識されていて、朝倉氏はこの時期既に畝状竪堀を用いていたのではないか、という議論があります。
朝倉氏の末期の天正元年頃の所作だという見方もあって議論は分かれていますが、戦国時代の天文・永録年間にピークに達したという山城の構築ラッシュ、その先陣を切って朝倉氏が「築城記」をものしていたという事実が大変興味をそそられます。
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