福井の山城について考える(2)

城歩きマンは、平成25年の元日にあたり、福井の山城について考えることを2,3述べましたが中身が抜けていました。あらためて述べたいと思います。
ひとつめは、年末の国吉城現地説明会でも感じたことですが、越前、若狭の国境の城について、これまであまり意識して考えることをしてこなかったので、今年はこの点について少し掘り下げてみたいな、と思います。
中世、とくに戦国時代の越前の覇者、といえばもちろん朝倉氏ですが一向一揆以外は大きな脅威がなかったために国境を防備する機会が少なく、戦闘の歴史も取り立ててなかったようです。越前一国を侵略・制圧された、などという出来事は織田信長以外にはないのですから…。
そしてその信長に対抗するために大々的に国境を固めたかというと、それもこちらから出かけていく戦闘が多くて、国境を固めるための防備はさほどやっていません。
でもそれは本当でしょうか…?というのが考えはじめたことの発端です。
ふたつめは畝状竪堀をもつ山城を県外でもいくつか確認しておくこと。
もちろん、今まで城歩きマンは全国各地の山城を見学してきましたが、まだまだ見学し足りません。そして越前の畝状竪堀をもつ山城が朝倉氏独自の所作ではない、ということを県外でも確認するために歩いておきたい。つまり、但馬なら山名氏のものではないし、安芸なら毛利氏のものではない、ということを確認したいのです。
今では畝状竪堀が全国で確認され、構築された時期も戦国時代をほぼカバーする永正・天文年間から天正年間まで、かなり幅が広がりました。
この畝状竪堀をもって誰それの大名が築いたものだ、とはあまり言わなくなったと思われますが、まだ山城研究の発表や報告文を読んでいると、なお大名の築城技術の一環として処理する考え方がはびこっていて、”山城編年”のメルクマールになるとさえ考えている人がいます。
畝状竪堀が用いられた本当の意味とはどんなものだったのでしょうか?そのあたりを掘り下げるには、築城技術の流れを正確に把握し、畝状竪堀がどこに位置づけられ、用いられた意味がどんなものだったのか、もう少し考えてみたいな、と思うのです。
山城構築の歴史は、一向一揆や「ムラの城」論にも現れているように、奥深く、また包括している内容の幅広さがあって、決してこれらを一概に捉えて、事足れり、としてはならないものだと最近つくづく感じています。
築城技術の発展、発達論や構築に関わった武将、技術者の階層差、意識の程度などを考えねばならないと思うのです。
もちろん、いままでにもこうした考察は、一部では行われています。でも途中で終わっていて、未完成のものが多いのです。何とかしてこの議論を完成の段階にこぎつけたいと思います。
平成25年のはじめに見た初夢の一端を、忘れないうちにと書き綴ってみた次第です。
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