若狭の中世山城について考える

平成25年の年明け早々、大胆にも越前の国境の城について考える、などと発言してしまいました。また、未踏査の県外の畝状竪堀をもつ山城を歩いてみたいとも書きました。
その後、本当に実現できるかなあ…、と少し不安になっていますが、マ、体力さえあればなんとかなるでしょう。
余談はさておき、国吉城や国境の城のことで、若狭の城をまとめた大森宏さんの『戦国の若狭――人と城』を読み返しています。この本は実によく若狭の城をまとめていますね。もちろん一朝にしてできたものではなく、著者が小浜市役所に勤務しながら、何年もかけて資料を集め、その地区での城の歴史をまとめ、一つ一つ城を歩いて縄張図を作成して編集したものです。周りで多くのスタッフが参加していて、その協力体制によってできたものだ、とも思います。
それにしても、これだけの内容をよくぞまとめられたものです。越前のことに置き換えてこれほどのものができるだろうか…、城歩きマンはつくづく感心しています。
その大書の中で大森さんは、若狭には後瀬山城に見られるような畝状竪堀を有する城については難波江城、和田城、達城、加斗城、熊川城、安賀里城を例にあげ、村田修三さんや、北垣聰一郎さんの研究成果から永正・天文年間頃の古式のタイプだろうと予想しています。
本が刊行された時期が平成8年で、いまほど類例も多くは報告されていない時期でしたが、的確に事例を挙げてその構築年代まで見通している点は、さすがだなと思います。おおい町の石山城では平成12年の発掘調査で畝状竪堀が見つかっていて、類例が一つ増えています。
その大森さんの研究成果をもってしても、若狭における畝状竪堀の築かれた意味、またその特質については十分明らかにならないまま、ご本人が永眠されてしまいました。まことに口惜しく、残念です。大森さんにこの辺りのことを追及してほしかった、と思うのです。
城歩きマンはその足跡をなぞるだけに過ぎませんが、折角の偉大なる成果を汚さぬよう、大森さんに続いて畝状竪堀のことを追及していきたいと思います。
城歩きマンは、若狭における畝状竪堀の構築された時期や、その城主の動向、意味などについて一定の見通しをもっています。越前よりもある意味では共通性があって、パターン化しやすいのではないか、とも思っています。鍵となる年代はやはり武田氏被官の武将同士が相い争う天文年間だろうと思います。
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