中国・九州山城踏査その4

長野城畝状竪堀北九州市長野城・畝状竪堀
城歩きマン初の長距離でのクルマ単独旅行もいよいよ4日目に入りました。
長野城から大分県の妙見岳城、高崎山城をめぐる予定です。しかし、午前中の長野城の見学に十分時間をとったせいで、午後の予定がつまってしまいました。現地に行くまで分からなかったのですが、長野城をおりて大分自動車道で妙見岳城のある宇佐市院内町へ向ったのですが、途中院内インターで降りるつもりが、なぜかこのインターは降りられないことになっていました。

ここがダメだと大分インターまでICがありません。仕方なく、ここを通り過ぎて大分市の高崎山に向かいました。後で戻ればいい、というぐらいに考えていたのですが、甘かったようです。今度は高崎山のふもとまで来たところで雲行きが怪しくなり、とうとう雨が降り始めてきました。山城のある山頂まで標高628.4mです。何とか林道を利用して少しでも上へ登っていきたいと思いましたが、今度は林道がせまくて、未舗装道路で、雨が降り始めた状態ではどうなることか・・・・。

そんなこんなで、悩んでいるうちに時間がどんどん過ぎて、結局ここも登城できませんでした。
さて、午前中の長野城へは、地元で保存運動を何年も続けていらっしゃる河野正彦さんとそのお仲間の人たちに案内されて登りました。途中には林道が大きく崩落して通行不能になっている個所があったりで、一人ではなかなか難しい登城でしたが、河野さんたちのご親切な案内で楽しく見学ができました。本当にありがとうございました。

長野城は畝状竪堀の数が250条にも及ぶ日本でも著名な山城です。わが一乗谷城でさえも140条ほどですから、その規模のすごさは言わずもがなです。登り始めの二ノ丸の長い竪堀をよじのぼり、本丸の尾根へと向かったのですが、この二ノ丸から立て続けに畝状竪堀が刻まれていて、この状態は本丸を過ぎて、反対側尾根の三の丸(出丸)まで延々と続いていました。まったくたいしたものです。百聞は一見に如かず・・・・、とはまさにこのことを言うのでしょうか。
数の多さを言うのではなく、これほどに畝状竪堀を刻んだ防御のやりかた、畝状竪堀への思い、といったものを考えざるを得ません。
そういえば、今回見損なった宮若市の祇園岳城も山城の周囲全体を畝状竪堀で囲うやり方をとっています。最後の日に向かう大分県佐伯市の小田山城も周囲全体を畝状竪堀で囲っています。また、花尾城や、周南市の若山城も畝状竪堀をふんだんに使っています。全く、北陸辺りでは見かけない状態が、ここでは当たり前のように存在するのです。
畝状、畝状と言っていたことが恥ずかしい、と思えてくるくらいごく普通に使われている防御法だということでしょう。長野城は鎌倉時代の保元2年(1157)平時盛の息、康盛(後に長野氏を名乗る)が築城したといわれ、戦国時代には大内氏、毛利氏・大友氏の勢力争いに巻き込まれ、天正15年(1587)秀吉の九州平定によって服属し、のち築後に移りました。畝状竪堀は花尾城のときもそうでしたが、秀吉の段階か、その前かで評価は全く違ってきます。どちらと考えればいいでしょうか。

由布岳夕景由布岳の夕景
高崎山のあと由布院温泉へ一泊しましたが、そのときに見た由布岳の夕景があまりにきれいだったので写真に収めました。
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