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『井蛙集草稿(いのかわずしゅうそうこう)』について(その2)

編集_舟橋舟橋遠景(2014年撮影、南から森田側を望む)
城歩きマンがとても勉強になったものには、能登にある総持寺の開山和尚、瑩山紹瑾は越前多祢郡の人なり、と言う一節があります。瑩山は曹洞宗第四代の和尚で能登総持寺の開山であったこと。そして出身地が越前の山崎三ヶ、合併した三村のうちの、多祢(古名)だったという。角川の地名辞典にもちゃんと記載がありました。知らぬは城歩きマンばかり・・・。

さらに鳴鹿には明治の9年以降舟橋が架かっていたが、この橋はもともと森田の舟橋だったものをちゃんとした木橋が森田に架けられたので、その鉄鎖や舟などを鳴鹿にもってきたという話。

また慶応4年(1868)に井向で発見された2個の銅鐸について、直接発見した本人、岡部氏から発見の様子を聞き、メモしていたというエピソード。
2個のうち、大きい方(1号銅鐸)は本人が所蔵し、小さい方(2号銅鐸)は当時、井向を知行していた西尾藩の藩主、松平和泉守に献上されたことが記されています。
1号銅鐸は流水文様の間に人物や舟や動物など、原始絵画が描かれていて、現在国の重要文化財に指定され、兵庫県辰馬考古資料館に所蔵されていますし、小さい2号銅鐸は名古屋市在住の個人が所蔵しているとか・・・。こちらにも袈裟襷文の間に人物、動物、あるいは高床倉庫などの絵が描かれています。いずれも弥生時代の生活の様子や環境を推し量る上で大変貴重な資料となっています。

春江町井向出土の銅鐸井向1号銅鐸、辰馬考古資料館所蔵(「図説 福井県史」より引用)
こんな話が、つい今し方、ご近所で噂話を聞いたとでも言うようにポンポンと飛び出してくるところに驚きを感じます。
明治の初め、福井では北陸人類学会が結成され、多くの篤学の徒が入会して原始から古代にかけての文物の紹介や遺跡の踏査を続けておられたとか。そのメンバーには月輪真成さんや高橋健自さんがおられます。いわゆる第1次考古ブームの到来を告げるものでしたが、これらの方々に混じって我が薫界和尚も、ともに遺跡や遺物の調査、研究に打ち込んでいたのだろうと容易に想像されます。

最後になりますが、考古学的な発見であろうと思われるのに、その後の福井の研究史上には現れてこない一件がありますので付記しておきます。
それは現坂井市丸岡町小黒の集落で、明治22年に民家の壁土を捏ねているときに土中に穴が開き、落下する事故が起きましたが、中を調べてみても何もなく、茶碗が一個落ちていただけだと言います。
その茶碗がどんなものかは述べられていませんが、薫界和尚も実際に中に入って状況を確認し昔の住居跡だろうと指摘しています。類似の例が丸岡の瓜生、金津、あわら市波松などに見られると書き添えています。いわゆる「横穴」でしょうか。典型例は近場に例をとれば、加賀市勅使町にある法皇山横穴群がありますね。

横穴の調査は県内では絶えて久しく、ほとんど研究は進んでいません。この草稿集がきっかけとなって、横穴だけに止まらず、他の事例にもスポットが当てられて、歴史研究のきっかけになっていけば、浅田さんや薫界和尚の思いが必ず通じるものと確信しています。
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